2016年6月10日金曜日

ログを更新しようと思い続けて今になってしまいました、小林です。

最後まで行き着く前に眠くなってしまったので、私が今まで参考にしてきたことなどアップします…。
実際に制作での表現について考えたことは授業内で。

先週の金曜日先生が、本当に大好きな、リスペクトしている作家・作品であれば自ずと表現したいことが現れてくるのではないか。といったようなことをお話しされていたのを思い出します。
それは作家・作品をよく知ることから始まると…
自分の気持ちを言葉・作品で表現できるように、もう一度しっかり作家・作品に向き合います。

・前回までに考えていたこと

敬愛する作家:松井冬子

しかし最終成果物に対しては作家個人を対象とするのではなく、
作品に対するリスペクトとし、1つの作品を当てる予定

対象とする作品:浄相の持続


この作品を取り上げる理由:
絵の中の女性が体を切り開いているために
自分を痛めつけなくても代わりに傷んでくれている安堵感
女っぽい
綺麗


さて、この絵は九相図と呼ばれる絵画からヒントを得、制作されたものです。
対象とする作家のみならず、その作家が影響を受けた人物についても調べよとありましたが、私はここで九相図について知っておくべきだと感じました。

以下は画集“世界中の子と友達になれる”にあるものから抜粋しました。
大変長いですが、私の感じるところや思うところもよく書き表されているので、紹介します。

 「九相図」とは、人間が死んで腐敗し骨へと変ずる様を9つの段階に分けて示した、仏典にもとづく絵画です。僧侶が現世や女人への執着を断って悟りへいたるための、修行の補助手段として制作されました。
 松井はこの主題に想を得て、現代の九相図に着手します。「浄相の持続」「成灰の裂目」に「應声は体を去らない」「転換を繋ぎ合わせる」「四肢の統一」が加わり、はじめて視覚的に連作としての相貌を現しました。

「浄相の持続」

「成灰の裂目」

「應声は体を去らない」

「転換を繋ぎ合わせる」

「四肢の統一」

 その端緒「浄相の持続」で、女は笑みを浮かべてこちらを見つめ、みずから腹部を裂き、胎児の眠る子宮を見せつけています。子宮を持つ者に付与された生命を産み出す力。その能力を有する者しか抱きえない感覚の優位。女であることを誇るように、彼女は無力に朽ちていくだけでなく、児を孕み、死してなおその軀を蛆という生命に、花々という生命につないでいるのです。結果として松井の九相図は、生命の尽きることなき流転へと肉迫していきます。
 身体も感覚も私自身のものとして実感し共感できる女(雌)しか描かない、と松井は語ります。いま現在を生きる人間の、そして女性としてのリアリティを絶対の基盤とする制作は、古典の安直な翻案を越えて、たしかに「現代の」九相図を実現しつつあります。みずからのリアリティにどこまでも忠実であること。それこそが、現代アーティスト・松井冬子の表現の強度をなしています。
(横浜美術館学芸委員 坂本恭子)

略—九相図:仏教経典に基づく
 経典には、観想すべき死体を男女どちらとも明記していないにも関わらず、日本で制作された九相図には、一貫して女性の死体が描かれている。中でも、鎌倉時代の作例である「九相図巻」には、絵巻の冒頭第一段落に似絵の技法で生前相が描かれており、続く第二段落以降で酷く変容していく死体が、若く美しい貴族女性のものであることが強調されている。また各段において、精緻に描き込まれた肉体の細部は解剖学的正確さをも備え、あられもなく投げ出された四肢は、死体であるにも関わらず艶めかしい生命力さえ放つ。
 美しく高貴な女の死体であること、これが日本で長きにわたって継承されてきた九相図という主題の核心である。

「九相図巻」

 不浄観(略部分で紹介)を、男性出家者による性的煩悩滅却のための修行と一義的に捉えるならば、九相図が女性の死体として描かれることは当然の帰結かもしれない。そこには女の肉体を徹底的に対象化し、その性的吸引力を無効化し乗り越えようとする、男性からの一方的な眼差しの存在が認められる。この強烈な禁忌は倒錯したエロスの温床ともなろう。ただし、九相図へ向かう中世日本人の視線はそれだけではない。九相図はまた、女性自身による信仰表明の媒体としても機能する。
 記録に残る最も古い九相図は、京都の醍醐寺にかつて存在した焔魔堂にあった。貞応2年に落慶供養された焔魔堂の発願者は、後白河院の第六皇女にあたる宣陽門院覲子で、父院から長講堂領をはじめとする荘園を継承し、その経済力を基盤に13世紀前半の造寺・造仏を主導、盛大なる仏事を主催した稀代の女院である。その発願になる焔魔堂に九相図の壁画が置かれていたことが、諸資料から推定されている。冥界の主である焔魔王を祀る堂の機能を考えれば、そこに「死」を表象する図像が置かれていたとしても不思議はない。しかし、さらに踏み込んで解釈するならば、その九相図には願主である宣陽門院自身の姿が重ね合わされていたのではないだろうか。
—中略—
 再び鎌倉時代の「九相図巻」に視点を戻すならば、冒頭の生前相は、これから展開する九相図が高貴な美女のものであることを示して鑑賞者の信仰心(あるいは好奇心)を昂揚させるだけではなく、女性自身に自己投影させるためのものではなかったか。自らの強い意志で、おぞましい姿をさらし他者を救済する、そのたぐいまれな聖性が付与されることによって、腐る死体という究極の醜なる図像が美に転じる。
(共立女子大学准教授 山本聡美)


上記においての共感点・気になるところ・自身の制作で表現したいこと
・生命の尽きることなき流転へと肉迫
  いま現在を生きる人間の、そして女性としてのリアリティを絶対の基盤とする制作
  古典の安直な翻案を越えて、たしかに「現代の」九相図を実現
  みずからのリアリティにどこまでも忠実であること
・自らの強い意志で、おぞましい姿をさらし他者を救済する、そのたぐいまれな聖性が付与されることによって、腐る死体という究極の醜なる図像が美に転じる

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